ジョン万次郎こと中浜万次郎は、14歳の時漁に出て漂流、アメリカの捕鯨船に助けられたことから、日本人初のアメリカ留学生となって、英語や航海術を学びます。24歳でハワイから沖縄に到着、日本帰国第一歩の6ヶ月間を沖縄(当時琉球)で過ごしました。その後、土佐を経て江戸へ。咸臨丸に乗船し再び米国へ行きます。
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2018年2月、ジョン万次郎たちが上陸した大度浜海岸に「ジョン万次郎上陸之地」と書かれた銅像やイラスト板、園路などが整備されました。
ジョン万次郎が大度浜に上陸した際の服装(カウボーイハットと洋服)で左手には「米国初代大統領ジョージワシントンの伝記」と「ボーディッチ航海術書」を持っています。
ジョン万次郎が生まれた高知県土佐清水市を指さしています。
大度園地は沖縄戦跡国定公園に指定されています。
沖縄戦跡国定公園の区域は、糸満市摩文仁を中心に東風平町の一部、具志頭村の一部及びこれらの地先海域を含めた5,059ヘクタール(陸域3,127ヘクタール、海域1,932ヘクタール)です。
沖縄戦跡国定公園指定の趣旨は、第二次大戦における日米両国の激戦地として知られている本島南部の戦跡を保護することにより、戦争の悲惨さ、平和の尊さを認識し、20万余りの戦没者の霊を慰めるとともに、延長11キロメートルにおよぶ雄大な海蝕崖景観の保護を目的に設けられた公園で、戦跡としての性格を有する国定公園としては我が国唯一のものです。(沖縄県HPより)
大度浜海岸はウミガメが産卵する貴重な場所です。
1841年、土佐で生まれた14歳のジョン万次郎は仲間たちと漁に出ましたが、足摺岬沖で嵐に遭い、太平洋の孤島に漂着します。143日の無人島生活の後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助されます。ホイットフィールド船長により安全なハワイへと連れられます。
ホイットフィールド船長に連れられ、ジョン万次郎はアメリカ本土に上陸します。英語や航海術を学び、日本人初の留学生となりました。学校を卒業した後は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海して、副船長にまでなります。
台座の下部の銘板は、明治時代の頃の明朝体を再現した「オラダノ明朝体」で記載されています。
上記写真のアドベンチャラー号の説明祭の右上にあるのは、ジョン万次郎が日本に帰国するための資金を稼いだアメリカカリフォルニア州サクラメントの小石です。1850年、カリフォルニア州で起こったゴールドラッシュで帰国資金を稼ごうとサクラメントの金山に向かいます。そこで、600ドル稼ぎ、ハワイに戻って「アドベンチャラー号(捕鯨ボート)」を購入します。
ハワイからジョン万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、上海に向かう商船サラボイド号にアドベンチャラー号とともに乗ります。
1851年2月2日、悪天候の糸満市喜屋武岬沖合で、アドベンチャラー号を下ろし、陸地を目指します。深夜の海岸は干潮だったため、岩礁に碇を下ろし一夜を過ごします。
近くにいた釣り人の指示で小渡浜に上陸することが出来ました。
半年間に及ぶとらわれの身ではありましたが、村人たちと自由に交流ができました。村の綱引(左側のカーボーイハットがジョン万次郎)に参加するなど、「いちゃりばちょーでー(一度会えば皆兄弟)」の精神に触れることが出来ました。
ジョン万次郎たちは取り調べのため、荷物を没収され、摩文仁番所に連れて行かれました。その荷物の中には、銅像の左手に持つジョージワシントンの伝記や航海術書などの他にピストル、コンパス、地図などがありました。
役人からお箸とご飯を渡され、箸を上手に使いこなしたこと事から、日本人であると認められました。
ジョン万次郎が持っていたジョージワシントンの伝記には、アメリカの民主主義社会のことや人権尊重などが書かれていました。ジョン万次郎が日本に持ち帰りたかったのは、自ら体験した民主主義の考えでなかったかと言われています。
その後、土佐へ戻り、黒船ペリー提督が現れたとき、幕府はジョン万次郎を江戸に呼び寄せます。開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話します。
その後、翻訳、測量、捕鯨などを行い、咸臨丸でアメリカに行くなど、明治新政府になっても、海外出張を命ぜられるように、国際人として活躍していきます。
※参考 ジョン万次郎上陸之碑に書かれていた説明文を参考にいたしました。
那覇空港から国道331号線を南下、ひめゆりの塔を越えたあたりに大度浜(おおどはま)海岸への入り口があります。
海岸近くに来ると写真のように300円有料駐車場がありますが、ここへは入らず右の方に回って行くと無料駐車場があります。
無料駐車場の奥にある白い道を歩いて行けば、ジョン万次郎上陸之地にいくことができます。
住所:沖縄県糸満市大度海岸