沖縄県南部の八重瀬町富盛(ともり)地区にある『富盛の石彫大獅子』は、地域の守り神です。しかし悲しい戦争の傷跡が残る「沖縄最古のシーサー」とも呼ばれています。3世紀以上にわたり、火山といわれていた八重瀬岳を見つめ続けた石堀の大獅子は、沖縄県指定有形民俗文化財に指定されています。
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「勢理城(ジリグスク)」は、八重瀬町字富盛(ともり)に位置しています。ガジュマルなどの大木や草木が生い茂る城跡ですが、勢理城(ジリグスク)よりも「富盛の大獅子」があることで有名。「富盛の大獅子」は沖縄県有形民俗文化財にも指定されています。
勢理城(ジリグスク)はいつ誰が築いたのかはわかりませんが、勢理城(ジリグスク)跡は小高い山の頂上に広場があり、町全体を見渡せるようになっています。そこに「富盛の石彫大獅子」があり、あとは大きなガジュマルがあるだけ。草が生い茂るひっそりとした広場です。
広場には、シーサーが一体。これが『富盛の石彫大獅子』です。高さは141㎝、全長175㎝。沖縄県最古のシーサーと言われています。
大きな石を掘り出して作られたといわれているこのシーサーは、地元では「富盛のシーサー」と呼ばれ、昔からこの地域の守り神として信仰の対象とされてきました。と、言うのもこのシーサーが建てられる以前の富盛地区は、なぜか火事が頻発しており、不安な日々を過ごしていた村人たちは、ある風水師に相談します。すると風水師は、火事の原因が「火山である八重瀬岳にある」といい、火事から村を守るためには、シーサーを八重瀬岳に向けて設置するよう指示したのです。村人たちが風水師に言われた通りにシーサーを置いてみると、不思議なことにそれ以降、火事はなくなりました。そしてこの事があってから、沖縄各地にシーサー信仰が広まり、地域レベルではこの石獅子(シーサー)が最も古いといわれています。まさにシーサーの元祖ですね。
石彫のシーサーってあまり見かけない気がします。
そして笑っているような愛嬌のある顔。でもこのシーサーは悲しい歴史を目の当たりにしてきました。
シーサーをよく見ると、体には無数の穴があります。これはすべて弾痕。八重瀬岳と富盛地区(シーサーのある場所)は戦時中、日本軍が首里撤退後、重要な防衛拠点としていた地点。アメリカ軍が南部に上陸してくると想定して布陣したため、北部から進撃してきた米軍にはほとんど役に立たず、結果アメリカ軍により占領されてしまいます。
富盛の石彫大獅子を盾にして日本軍の様子をうかがうアメリカ軍の写真。この場所のすぐ近くには「白梅の塔」で慰霊されている、従軍看護隊「白梅学徒看護隊」が配属された壕があり、戦火で一面焼け野原となったこの場所で、富盛の大獅子は「白梅学徒看護隊」の貴重な「弾避け」としても役に立ったのではないかと言われています。
富盛のシーサーは、これからもずっとこの地域の守り神として、あたりを見渡せる高台に座り続けます。沖縄本島南部を訪れた際には、ぜひ一度は足を運んでくださいね。
住所:沖縄県島尻郡八重瀬町富盛22 駐車場:あり