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源為朝が今帰仁村運天港に上陸!運天森園地と百按司墓

源為朝が今帰仁村運天港に上陸!運天森園地と百按司墓

沖縄県国頭郡今帰仁村にある運天港。運天港からは、伊平屋島や伊是名島行きのフェリーが運行しています。保元の乱の落武者、源為朝が伊豆大島を脱出し運天港に流れ着いたという伝説や、16世紀以前の山原地域の有力な按司あるいはその一族の墓「百按司墓(むむじゃなばか)」がある、運天港界隈を紹介したいと思います。

運天森園地からは古宇利島大橋が一望

今帰仁村源為朝上陸碑

運天港からは伊是名島、伊平屋島へ向かうフェリーが運行しています。伊是名島は琉球国王「尚円」生誕の地なので、フェリーいぜなには尚円王が描かれています。

今帰仁村源為朝上陸碑

出典:今帰仁村

運天港や集落の北側に位置する高台に整備された公園が運天森園地。実はココ、知らないと損をする隠れた絶景スポットなのです!

今帰仁村源為朝上陸碑

運天森園地の最も高い所にあるのが運天展望台で、ここから古宇利大橋の全景を横から眺めることができ、視線を右に移すとワルミ大橋とワルミ海峡も一望できます。天気のいい日には、とてもいい写真が撮れるのでぜひ!

また、運天森園地内には、按司(あじ)あるいはその一族が葬られた「百按司墓(むむじゃなばか)」や、保元の乱(1156年)で敗れ八丈島に流刑となった源為朝が運天港にたどり着いた伝説をもとに建てられた「源為朝公上陸之碑」もあり、歴史が好きな人にとってはたまらないスポットです。

★沖縄で絶景の穴場を独占するならココ6選!の記事は、コチラをご覧ください。

源為朝が今帰仁村に上陸!?

今帰仁村源為朝上陸碑

では「百按司墓(ももじゃなばか)」と「源為朝公上陸之碑」に行ってみましょう。この場所には、車が2台程度停められるスペースがあり、そこから右に行くと50mくらいで「源為朝上陸の碑」、階段を降りて行くと「百按司墓(むむじゃなばか)」があります。運天森園地からは約200mくらいの場所に位置します。

今帰仁村源為朝上陸碑

こちらが大正11年に建立された「源為朝公上陸之碑」。この記念碑は、源平の争乱(保元の乱)に敗れ、源為朝が伊豆大島に流された後、伊豆大島を脱出し、暴風にあいながら「運を天にまかせて」辿り着いた地を記念して建てられた石碑です。「運天港」の名の由来が「運を天にまかせて」というエピソードからつけられたと知り、少し驚きました。

今帰仁村源為朝上陸碑

伝説によると源為朝が運天港に流れ着き、地元の有力者の娘を娶(めと)り琉球王統の始祖を作ったという説もあります。そして生まれた子どもの名前は尊敦(そんとん)といい、後の初代琉球王の舜天(しゅんてん)であるというもの。初代琉球王舜天(しゅんてん)が為朝の子供だということは、舜天は源頼朝のいとこになるということ!?

しかし為朝伝説を史実として証明する史料は全く無く、あくまでも伝承(伝説)であり、この伝承を元にして「源為朝公上陸之趾」の碑が建てられたそうです。歴史って知れば知るほど面白いですね!



京都大学が人骨を返してくれない百按司墓

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

「源為朝公上陸之碑」から階段を降りていくと・・・

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

「百按司墓(むむじゃなばか)」を発見!「百按司墓(むむじゃなばか)」按司(あじ)あるいはその一族が葬られたお墓です。ちなみに「按司(あじ)」とは沖縄のグスク(琉球語で城)を築いた有力な首長の呼称で、百按司墓は「数多くの按司の墓」の語義を持ちます。

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

百按司墓は、一人の墓ではなく、たくさんの人が葬られていた風葬墓で、手前の四角い穴があいている墓が第1号墓所。明治20年代に第一墓所から第四墓所まで修復がなされ、石積み囲いの状態で今も残っています。第一墓所には漆塗りの木棺があったが、現在は修復し歴史文化センターに展示してあります。

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

百按司墓には、どのような人たちがこの葬られているのかは諸説あり、「沖縄拝所巡り300」(比嘉朝進著)によると、

①羽地按司(怕尼芝(はにじ)):怕尼芝(はにじ)は14世紀琉球、後北山王国(後山北王国)の初代国王に滅ぼされた中北山の戦死者たちの墓
②後北山が尚巴志に滅ぼされた時の戦死者たちの墓
③尚巴志王統が滅び、その看守たちの墓
④尚徳王の悪政についていけない貴族たちが遁世した墓
⑤薩摩軍の攻撃で戦死した北山看守たちの墓

などで、一時代の一集団の墓ではなくいくつかの時代をまたいだ墓ではないかとのことでした。

また1929年に京都(帝国)大学医学部が、運天の百按司(むむじゃな)墓から琉球人の遺骨を研究目的で持ち出し、 遺骨の返還を求めていた第一尚氏の子孫らが、交渉に応じない京都大学に対して、訴訟を起こしたというニュースを目にした方も多いはず。京都大学は、当時の沖縄行政から許可を得ているとして争う姿勢で、26体の遺骨を保管していることを初めて認めました。なお、遺骨の一部は台湾大学にも保管されていて、こちらは既に同大学が返還に応じ、63体の遺骨が沖縄県立埋蔵文化財センターに戻されています。

源為朝が住んだと言われるティラガマ

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

源頼朝が住んだと言われている「ティラガマ」。残念ながら「ティラガマ」の看板は何もありません。「源為朝公上陸の碑」から40mくらい奥に入ったところに「ティラガマ」はありました。

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

この地に上陸した源為朝は、しばらくの間、このティラガマで生活したという伝説が残っています。

今帰仁村源為朝上陸碑と百按司墓

洞窟の中に入っていくと、源為朝が寄り掛かったときにできた指跡といわれている窪みと、洞窟内部には拝所があり、かつては霊石・ビジュル石もあったそうです。

ちなみにビジュル石とは、仏教の「びんずる様」に由来すると考えられる石で、子授け祈願や吉凶を占う力がある他、治したい病を思い描きながら石を撫でると病気が治る霊力が秘められていると信仰を集めている石のこと。しかし現在は何者かによって持ち去られ、目にすることはできなくなりました。しかし現在でも子授け祈願のために洞窟に向かって祈りを捧げる人は後を絶たないようです。

ただ・・・このティラガマには案内看板も何も無いので、たどり着くのは至難の業。この日は、たまたま源為朝上陸碑のところで草刈りをしていた地元の人がいたので、その方に教わってだとりつくことが出来ました。そしてこれもたまたまですが、その方が草刈りをされていたので、ハブの心配なくたどり着けました。訪れる時はハブにもご注意くださいね。

源為朝上陸記念碑

住所:国頭郡今帰仁村運天47

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福岡県出身。沖縄が好きすぎて2011年に那覇市に移住。現在は、インスタグラムなどで沖縄大好きを発信中!沖縄モチーフの革小物を製作・販売するSunking LeatherCraft代表。レザーソムリエ。泡盛マイスター。

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