黒船ペリーが浦賀にやって来て、日本に開国を迫ったという事実は皆さんよく知っていることでしょう。でも、実はその前にペリーは沖縄/琉球王国にやって来ていたのです。しかも、合計5回に渡り来琉し、沖縄各地を回っていました。
セルラースタジアムがある奥武山公園のすぐ横にある「ペリーもち屋」。「なぜ、ペリー?」のふとした疑問がわきました。
2019年4月末、創業から64年営業を続けてきたペリーもち屋がついに閉店しました。開店以来、ずっと店を支え続けていた店主の照屋トシ子さんは94歳。沖縄の伝統行事清明祭やお盆には、息つく暇がないくらい大忙しというお店でした。
なぜ、ココが「ペリー」の名前をつけているのか? ところが、ココだけではなかった。この周辺で「ペリー」の名前が付く場所がたくさん出てきました。
ペリー内科・小児科の他、ペリー美容院、ペリー保育園・・・
ナンと、ペリーの顔出しパネルまで! ココに画かれています、1853年沖縄来航と。
正確に言うと1853年5月26日那覇港に入港、同年7月8日に浦賀に着いています。どうやら、喜望峰を回る大西洋からのルート出来たようです。その後、沖縄には合計5回やってきて、1854年日米和親条約締結後、琉米修好条約を結んでいます。
これで、ペリーが沖縄の地を踏んだことはわかりましたが、なぜ、これだけ「ぺりー」の名前が使われているのか。
それは、この周辺が現在の山下町であり、米軍占領下において山下奉文陸軍大将の名前と重なるため、「ペリー区」としてこの地域の名称になっていました。
こうしたペリーの名前が多い山下町も、町を歩いて見つけました。まち歩きはいろんな発見をさせてくれますが、どうせならよく知っているガイドさんと歩いた方がよくわかります。
この沖縄リピートでも「那覇まちまーい」や「名護さくらガイド」、今帰仁城、首里城、中城、斎場御獄などの世界遺産にもガイドさんに登場してもらってます。今回は、「おきなわスローツアー」の高野純一さんと歩いてきました。
高野さん直筆のイラストマップです。泊散策道から泊小学校を経て、泊港に向かうルートです。①がペリー上陸の地記念碑で、②が聖現寺でペリーが琉米修好条約を結ぶときに、1年間使わせろと要求してきたお寺です。すぐ隣が琉球八社の一つ「天久宮」。そして、③が泊散策道です。
泊散策道の泊北公園すぐ前にペリーがやって来ています。この泊散策道には、同じようにハーリー、崇元寺石門、琉球空手、琉球歌劇泊阿嘉などが並んでいて、沖縄の歴史や文化の一端が見られます。一方通行で交通量の少ない小径なので、散歩には最高、次の機会で詳しくご紹介しましょう。
さて、コチラが泊港の「ペルリ提督上陸の地」記念碑です。ペリーは、Matthew Calbraith Perry(マシュー・カルブレイス・ペリー)でペリーが正解でしょうが、当時の日本側の記録には「ペルリ」と表記されているので、そう聞こえたのでしょうね。
ペリー上陸の地記念碑の隣は泊外人墓地です。「ウランダー墓」と言われ最初は22基の墓地でした。中国人6、アメリカ人10、イギリス人2、フランス人・スウェーデン各1、不明2で、最も古いお墓は1718年~1785年と書かれている中国人のものです。現在は300基余りあり、アメリカ人が中心です。
守礼門でのペリー一行。琉球国王始め、高官と会うことを国政府のある首里城を目指しますが、当初琉球王国政府は拒絶していました。それもそのはず、不利な条件であったこともあるが、この時琉球国王は9歳でした。琉球王国最後の国王になった尚泰王は(1843年8月3日生まれ)出て行ってもペリーと対等に話せるわけでもなく、「ペリー提督日本遠征記」によると、摂政と会った旨の記載があります。
写真提供:沖縄観光コンベンションビューロー
首里城北殿で行われた晩餐会です。拒絶しきれなくなった琉球王国政府は、それでも正殿には招き入れず、北殿にとどめておきます。冊封使の時のように、晩餐会でもてなすようにしています。
この時の記述に「サキ(酒・琉球人のつくる発酵飲料物)は、フランスのリキュールの味がして、非常に小さな杯に注がれた」とあります。泡盛の古酒をチブグヮー(おちょこ)に注いで歓待したのであろうと思われます。
この際に、調査隊を3班に分け、沖縄本島全域をくまなく調査しています。この時の調査で、琉球の地質、植物、動物、天文など様々なことを調べています。
当時の船は石炭で走る蒸気船のため、石炭を調達する場所としての目的も大きかったのではないかと思われます。
また、この時の琉球王国は、鎖国をしている日本・薩摩の支配下にありながら、中国との交易を続けており、ペリー提督側からみれば、どちら側に属するのか図りかねていた部分もあったようです。
世界遺産・「中城」でのペリー提督調査隊です。この時書かれた「日本遠征記」によって、当時の様子を知る貴重な資料になっているのも確かですが、約90年後の沖縄戦のために役立たせていた部分もあるかと思うと、腹立たしさも感じます。
参考:ペリー提督日本遠征記(角川ソフィア文庫)
この本は上下巻に分かれ販売されていますのでご興味ある方を読んでみてください。沖縄だけではなく、喜望峰、マラッカ海峡や小笠原踏査なども書かれており、非常に参考になりました。
住所 | 沖縄県那覇市泊3丁目1−15 |
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