江戸上りとは、江戸立ちともいい、江戸時代に琉球王国が江戸幕府へ派遣した琉球使節の江戸参府を指す言葉です。
使節団は琉球から薩摩へ渡り、薩摩藩の参勤交代に合流、海路伏見まで、その後東海道を進み、最終的に江戸城で将軍に対面しました。18回にも及ぶ江戸上りは、華やかな衣装、独特の楽器、異国風の作法は沿道の人々を驚かせ、江戸時代の日本に琉球の存在を強く印象づけました。
東海道かわさき宿交流館にて2026年4月14日から6月21日まで行われた「琉球使節、江戸上りと川崎沖縄交流の軌跡」(協力:川崎沖縄県人会、まぶいワークス)の展示を許可を得て撮影し、また、2026年5月16日同館で行われた上里隆史氏講演「川崎にやってきた琉球使節江戸上りの歴史」を聞いて、記事づくりの参考にさせて頂きました。
江戸上りの「上り」は、京都や江戸など政治的中心地へ向かうことを表しています。沖縄県は、当時、琉球王国という独立した王国でありました。
琉球使節は、琉球王国から江戸幕府へ派遣された外交使節団のことです。
使節には正使、副使、通訳、楽人、役人などが含まれ、単なる儀礼の訪問ではなく、王国の格式や国際性を示す重要な行事として実施されました。薩摩藩の参勤交代とともに、1634 年から1850 年までの216 年間に18回にも及び江戸上りが行われました。
江戸上りの背景には、江戸幕府が諸大名に課した参勤交代などの政治の仕組みがありました。
琉球王国は中国との冊封関係を維持しながら、17世紀初頭以降は薩摩藩の侵攻もあり、幕府とも外交的な関係を結びました。
そのため、将軍の代替わりなどの節目には、琉球から祝いの使節や謝意を伝える使節が送られました。
江戸上りは、琉球、薩摩、幕府、中国との複雑な関係が、江戸時代の儀礼として表れたものといえます。
この時代は鎖国が行われていて、海外との交流はほとんどありませんが、琉球王国という異国と繋がることで、将軍の国際的権威を高め、日本国内の支配力を強固にすることでした。この時代、朝鮮からも朝鮮通信使と言って、ソウルから釜山、対馬、壱岐、福岡から、瀬戸内海、大坂、淀川を経て伏見から陸路ほぼ江戸のぼりと同じように、江戸に使節団が出向いています。その回数は12回に及びます。
また、琉球や朝鮮を通じて、中国の情勢や高価な物品、文化などを手に入れることが出来ました。
琉球王国を支配し、異国情緒ある使節団を従わせることで、徳川幕府に対して琉球支配の正当性や強大な権威を誇示できました。また、参勤交代は各藩の経済力をそぐ狙いもあって、その経費はバカになりません。
ところが、琉球使節という異国の特別なゲストを連れて行くことで、幕府より「御用(公務)扱い」となり、通常の大名行列よりはるかに安い費用で、人足や馬などを利用できる特権がありました。
薩摩に侵攻され、薩摩の命令で中国衣装を着させられて、江戸上りに行くよう従わされたという見方は当然あるでしょう。しかしながら、琉球王国は、前向きに捉え、ヤマトの文化や見聞を自国に活かそうと、後述する名護親方や玉城朝薫らの優秀な人材を送りました。
また、琉球使節が音楽を奏で、特徴的な衣装で行列したのは、王国の格式と独自性を視覚や聴覚で示すためにもなりました。
沿道の人々にとって、音楽や舞踊は文字や言葉よりも分かりやすく、遠い海の向こうにある琉球の文化を体験する機会になったのです。
沖縄出身の方が数多くいる川崎では、川崎沖縄県人会が主体となって、この江戸上りを一部再現することになりました。江戸上りは、琉球使節団だけで100人から200人とも言われており、全てを再現するとなると、費用がかなり掛かります。クラウドファンディングなど、寄付も募りましたが、今回は60人規模での行列になるとのことです。
JR川崎駅近くにある石敢當です。川崎が沖縄にゆかりがあることを示していますね。
ここは、砂子1丁目の交差点です。セブンイレブン川崎砂子1丁目店(川崎市川崎区砂子1丁目7−1 )が目印です。ここから、江戸上り行列がスタートします。時間は、10時30分です。
ここは旧東海道になっていて、正に、江戸時代、江戸上りで琉球使節団が歩いた道です。
そして、ゴールは東海道かわさき宿交流館になります。

出典:googlemap
15歳から18歳の楽童子は、煌びやかな衣装をまとい、白粉(おしろい)をつけた容姿端麗な美男子達です。彼らは、選抜された上で、半年以上にも及ぶ合宿を経て、琉球音楽や踊り、そして、詩や書、茶道なども身につけていました。
その上で、容姿も端麗となれば、人気を博すのは当然であったでしょう。正に、今のアイドルグループですね。
江戸上りは、琉球王国が自らの意思だけで自由に行った旅行ではなく、将軍の代替わりや外交上の節目に合わせて実施された公式の使節派遣でした。
代表的な使節には、将軍の就任を祝う慶賀使と、派遣や国王の地位を認められたことへの感謝を伝える謝恩使があります。
こうした使節は、幕府に礼を示す役割を担う一方、琉球王国の存在と格式を国内外に示す場でもありました。
江戸上りを理解するには、祝賀と謝意という二つの目的を区別することが大切です。
慶賀使とは、徳川将軍が代替わりした際に、その就任を祝うため琉球王国から派遣された使節です。
将軍の交代は幕府にとって大きな政治的節目であり、諸大名や外国に近い地域から祝意を受けることは、将軍の権威を示す意味を持ちました。
琉球側では王子など王族に近い人物が正使となることが多く、格式の高い一行が編成されました。
江戸城での儀礼だけでなく、旅の途中の行列も幕府や薩摩藩の威信を示す機会として扱われました。
謝恩使とは、琉球国王の即位を幕府が認めたことや、使節派遣に関わる恩恵に対して、琉球側が感謝を伝えるための使節です。
琉球王国では国王の代替わりに際して、中国皇帝の使節である冊封使を迎える一方、日本側との関係でも承認や儀礼が重要になりました。
謝恩使は、こうした政治的な節目に礼を尽くす役割を担いました。
慶賀使が将軍の就任を祝うのに対し、謝恩使は国王の地位や関係の確認に対する謝意を表す点が大きな違いです。
慶賀使や謝恩使は、琉球王国と江戸幕府を直接つなぐ存在であると同時に、薩摩藩の外交政策にも組み込まれていました。
1609年の薩摩藩による琉球侵攻以後、琉球は薩摩の影響下に置かれましたが、中国との関係を維持する王国としての立場も保ちました。
薩摩藩は琉球使節を江戸へ escort し、幕府に対する自藩の貢献を示しました。
一行の派遣には負担もありましたが、三者の関係を確認し、政治的秩序を演出する外交上の役割がありました。

名護博物館の程順則
程順則(ていじゅんそく)は、1714年7代将軍徳川家継の将軍就任を祝う慶賀使として江戸上りに加わっています。進貢使として数回清国を訪れている程順則は、江戸上りに際し、薩摩藩藩主の島津吉貴に『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を献上し、江戸では新井白石らとも出会っています。
玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)は、薩摩に5回、江戸に2回赴いています。そこで見聞した能楽や狂言、歌舞伎などを取り入れて、組踊の礎を築いていきます。
街道では宿場に泊まり、幕府や薩摩藩が定めた行列の規則に従って進みました。
一行の人数や装備は時期によって異なりますが、王族や役人、楽人、通訳、警護役などが加わる大規模な集団でした。
長い旅程そのものが、琉球王国と幕府の関係を人々に見せる舞台となったのです。
一般的な江戸上りでは、琉球使節は海路で薩摩へ入り、海路瀬戸内海を経て、京都伏見より東海道を利用して江戸へ向かいました。
薩摩から先の道のりでは、城下町や宿場町、街道沿いの主要な地域を通過し、宿泊や休憩を重ねました。
江戸に到着すると、幕府が定めた場所で儀礼を行い、江戸城で将軍に関わる公式行事へ臨みました。
帰路も同様に多くの地域を通過したため、往復の行程全体が注目を集めました。
川崎は東海道の宿場町として江戸に近く、琉球使節の行列が通過する地域の一つでした。
街道を進む華やかな一行は、宿場の住民や旅人にとって、普段は見ることのできない異国的な文化に触れる機会でした。
衣装や楽器、従者の人数、独特の立ち居振る舞いは、見物人の関心を集めたと考えられます。
江戸上りの行列は、通過した宿場町に琉球の存在を知らせ、異文化への関心を高めました。
当時の人々は、絵図や記録、見聞録などを通じて、使節の服装や楽器、行列の様子を伝えました。
そのため、琉球使節は実際に見た人だけでなく、記録を読んだ人にも異国のイメージを与えました。
片道2,000km、片道だけでも半年かけて海路と陸路で江戸に向かいます。暑い沖縄から気温の異なる江戸に出向くわけですし、今のようにダウンコートなどの充分な防寒着もなかったと推測されます。当然、途中で冬も迎え、雪に降られたこともあるでしょう。中には命を落とすものもいて、道中の各所には、そうした人々とが葬られた琉球墓や関連施設が見受けられます。
例えば、薩摩の山川港(現在の指宿市)には、琉球人鎮魂墓碑や魔除けの石敢當(いしがんとう)があります。
具志頭王子朝盛の墓は静岡市清水区にある清見寺(せいけんじ)にあるなど、各所に江戸上りの過酷さが見えてきます。
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江戸上りの印象を強くした要素の一つが、琉球使節の服装と立ち居振る舞いです。
使節は身分や役割に応じた衣装を身につけ、行列の中で決められた位置を歩きました。
衣装には琉球王国の宮廷文化や中国との交流の影響が表れ、江戸の人々には異国的に映りました。
ただし、すべての一行が同じ服を着ていたわけではなく、正使や副使、楽人、従者などで装束は異なりました。
服装を見れば、行列の格式だけでなく、役割分担や外交儀礼の仕組みも読み取れます。
慶賀使や謝恩使の服装は、誰がどの身分で、どの役割を担っているのかを示す重要な標識でした。
正使を務める王族や高位の役人は、一般の従者よりも格式の高い衣装や冠を身につけました。
随行する役人、通訳、楽人、警護役なども、それぞれの任務に応じた装束で行列に加わりました。
こうした身分表示は、琉球側が王国としての礼式を整えていることを示すものでした。
同時に、幕府や薩摩藩にとっても、秩序だった使節団を公開することで外交の形式を明確にする意味がありました。
琉球王国は中国との冊封関係を長く維持していたため、宮廷の衣装や儀礼には中国文化の影響が見られます。
江戸上りの使節が身につけた冠や衣服、持ち物にも、中国風の意匠や琉球独自の形式が組み合わされていました。
楽器や旗、傘、行列道具なども、使節団の格式を視覚的に示す役割を持ちました。
ただし、琉球の文化を中国文化の単純なコピーと見るのは適切ではありません。
日本や東南アジアとの交流を含む複数の影響を、琉球の社会が独自に取り入れて形成した文化として理解する必要があります。
江戸上りの一行は、一般の旅人のように自由に歩いたのではなく、決められた順番や間隔、礼法に従って移動しました。
楽人が演奏し、旗や道具を持つ人が続き、身分の高い正使や副使が中心に位置するなど、行列全体が一つの儀礼として構成されました。
異なる衣装や歩き方、静かな所作は、沿道の人々に強い印象を与えました。
見物人にとっては珍しい光景でしたが、使節にとっては王国の威信を背負う公的な務めでした。
華やかさの裏側には、長旅と厳格な作法に耐える責任があったのです。
江戸上りでは、使節団に加わった楽人が楽器を演奏し、行列に琉球らしい音の印象を与えました。
音楽は、言葉の通じにくい人々にも文化の違いを伝えられるため、外交儀礼と相性のよい表現でした。
江戸や街道沿いの人々は、衣装だけでなく聞き慣れない旋律や楽器の音にも注目しました。
使節団に属する楽人は、行列の進行を彩るだけでなく、琉球王国の宮廷的な雰囲気を伝える役割を担いました。
また、場面によっては舞踊や芸能が披露され、江戸の人々が琉球文化を具体的にイメージするきっかけになりました。
琉球文化を代表する楽器として知られる三線は、現在の沖縄音楽を象徴する存在です。
江戸上りの音楽を語るときにも三線はしばしば注目されますが、実際の使節団では三線だけでなく、太鼓や笛など複数の楽器が用いられました。
当時の演奏形態や楽器の構成は、現代の沖縄芸能と同じではありません。
それでも、琉球の旋律や演奏者の姿が沿道の人々に異文化を感じさせたことは、江戸上りの大きな特徴です。
音楽は、琉球が中国と日本の間で育んだ独自の文化を伝える媒体となりました。
「江戸立」は、琉球使節が江戸へ向けて出発することや、その行列を指す言葉として使われる場合があります。
一方、現代の地域イベントでは、江戸上りを題材にした行列や舞踊を「江戸立」と呼ぶこともあります。
舞踊の見どころは、衣装、隊列、音楽、所作が一体となって、琉球の宮廷文化を表現する点です。
演者がゆっくりと進みながら礼を示す姿や、楽器の音に合わせた動きは、単なるパレードとは異なる厳かな雰囲気を生みます。
江戸上りは、琉球王国と江戸幕府の交流を示すだけでなく、近世東アジアの国際関係を考える手がかりです。
琉球は中国との冊封関係を維持しながら、薩摩藩を通じて日本とも関わりました。
幕府は琉球使節を受け入れることで、国内に対して将軍の権威や外交的な秩序を示しました。
薩摩藩は琉球との関係を幕府への奉公として位置づけ、藩の存在感を高めました。
このように江戸上りには、祝賀や文化交流だけでなく、複数の権力と地域が関係する政治的な意味が含まれています。
琉球王国にとって江戸上りは、江戸幕府との関係を維持し、王国の立場を確認するために必要な外交行為でした。
琉球は海上交易や中国との交流によって発展しましたが、薩摩藩の影響下に置かれた後は、日本側の政治秩序にも対応しなければなりませんでした。
慶賀使や謝恩使を派遣することは、幕府への礼を示し、薩摩との関係を調整する意味を持ちました。
一方、琉球側にとっては、王国としての独自性を保ちながら複数の相手と外交するための実務でもありました。
華やかな行列の背後には、王国の存続をかけた慎重な外交があったのです。
江戸上りを理解するには、琉球王国と薩摩藩の関係を欠かせません。
1609年、薩摩藩は琉球へ侵攻し、その後、琉球は薩摩の影響を受けながら王国としての制度や中国との関係を維持しました。
薩摩藩は琉球使節の派遣を管理し、道中の護衛や幕府への説明を担いました。
その結果、江戸上りは琉球の外交であると同時に、薩摩藩が幕府に示す政治的成果にもなりました。
ただし、薩摩と琉球の関係を一方的な支配だけで説明せず、琉球側の外交努力や交易上の役割にも目を向ける必要があります。
正使を務めたのは王子など王族に近い人物で、多くの従者や薩摩藩士が随行したため、移動そのものが大規模な外交行列となりました。
江戸上りは、日本、琉球、中国が別々に存在していたのではなく、外交、交易、儀礼を通じて結びついていたことを示します。
琉球は中国との冊封関係を背景に国際的な交流を行い、その一方で日本の薩摩藩や江戸幕府とも関係を築きました。
使節の衣装や音楽には、こうした複数の交流の歴史が表れています。
江戸上りを日本の国内行事だけとして見ると、琉球王国の国際性を見落としてしまいます。
東アジアの中で琉球が果たした仲介的な役割や、異なる文化を組み合わせた創造性を考えることが重要です。
現代に江戸上りを学ぶ方法には、沖縄や鹿児島、川崎などの博物館、郷土資料館、歴史案内、地域イベントを訪ねる方法があります。
絵図や記録、衣装の復元、楽器の演奏を組み合わせて見ると、使節団の旅を具体的に想像しやすくなります。
ただし、再現イベントの衣装や演目がすべて当時のままというわけではないため、解説や史料の出典も確認しましょう。
江戸上りは、沖縄の歴史を日本史の一部として学ぶだけでなく、東アジアの交流史や文化の多様性を考える入口にもなります。
知ることから始め、地域や文化を尊重した交流へつなげていきたいですね。