沖縄本島中部、宜野湾の高台に「嘉数高台公園」という公園があります。ここは沖縄戦時には南部同様激戦地で、日本軍が使用した「トーチカ」も残されていて、戦争について学べる場所です。その一方で、高台にあるので見晴らしがよく、米軍の普天間基地や市街、青い海もきれいに見え、絶好のおすすめ写真スポットでもあるのです。
嘉数高台公園は、戦争の悲しい歴史が残る場所なのですが、360度の絶景が見渡せるスポットでもあります。
20数段ほどのらせん階段がある、印象的な「地球儀型」をした見晴台に登ると、すぐ眼下には米軍の普天間基地が!
このときはあまり飛行機はいませんでしたが、平日であれば、オスプレイなどが発着する様子を見ることができます。土日はホリデーのためか、めったに飛ばないそうです。
また、見る方向によっては、宜野湾市街、北谷町、そして遠く読谷村まで見えることもあるそうです!心理的に重い場所だけに、青い海が見えてなんだかほっとしました。
嘉数高台公園は沖縄本島中部、宜野湾の高台にあります。那覇空港から高速道を利用して25分。国道58号線沿い牧港の「A&Wハンバーガー屋」あたりからは車でわずか8分。歩いても20分ちょっとで到着することができます。
宜野湾の内陸部にある割には、わりとアクセスがし易い所だと言えますね!
しかし、やっと着いたと思ったら、123段もの石段が目の前に立ち塞がります!
せっかく来たのだから気を取り直して石段を登ります。
嘉数高台公園の案内板がありました。
それによるとここ、嘉数高台公園は太平洋戦争の沖縄戦では、南部糸満と同様に「激戦地」だった所です。1945年4月1日、沖縄本島中部の西海岸から米軍が上陸し、それを待ち構えた日本軍とここ嘉数高台公園で大規模な戦闘になりました。
いわば、日本軍が沖縄で最初に米軍と戦った場所なのです。
市民を含む多くの人が亡くなり、慰霊碑とともに、当時の陣地壕やトーチカもそのまま残されています。
この穴の空いた石の塊は「トーチカ」といい、ロシア語で「拠点」とか「点」を意味する軍事用語で、戦時中には、敵から身を守ったり攻撃をする拠点となりました。
高齢の方に「トーチカ」と言うと、必ずどんなものかご存知かと思います。
その「トーチカ」が嘉数高台公園には今も残されており、よく見ると無数の弾痕が開いていました。ところどころ、鉄筋がむき出しになるほど激しい銃弾を受けた箇所もあり、激しい銃撃戦を想像することができました。
トーチカはこのようにコンクリートの厚さは1mほど、内部は2mほどで、半地下になっています。大人はわずか3名ほどが入れる広さです。
また、トーチカには銃口を向けるための穴が2箇所開いており、そこから攻撃をしました。
迫りくる大勢の米軍に立ち向かう、数人の日本兵士。さぞかし生きた心地はしなかったに違いありません。
また、嘉数高台公園には、「陣地壕」も残されていました。
「陣地壕」とは、石灰石をくり抜いて掘ったいわゆる防空壕で、兵士や地元の人が避難するために作られたもので、内部は200mにも及んだのだとか!これはその出入り口です。
ここ嘉数高台公園は、日本軍が駐屯していたため、こうした陣地壕が無数に作られました。1944年の夏ごろから、工事は進められ、兵士だけでなく地元の女性や老人を含む住民も参加させたれたとのことです。
沖縄の固い石灰石を人力で掘るには、どれだけ辛い作業だったのかは容易に想像できます。
結局、この嘉数高台公園での戦闘で日本軍は撤退し、戦線は浦添や西原、首里、そして南部の糸満へと南下して行きました。
この公園では日本軍だけでなく、米軍も「忌まわしい丘」と呼ぶほど多くの人が尊い命を失った激戦の地となったのです。
公園内には、地元の人を祀る「嘉数の塔」や、京都府出身の2,530名の兵士を祀る「京都の塔」が建てられています。
今でも年に1度、はるばる京都からこの嘉数高台公園へお参りに来られるそうです。
現代においても、ウクライナで戦争があったように、日本でも戦争が再び起きないとは言い切れない状況です。悲惨な戦争を繰り返さないためにも、こうした場所があることは、できるだけ伝えていきたいと思いました。
営業時間 | 見学自由 |
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定休日 | なし |
料金 | 無料 |
所要時間 | 30分~1時間程度 |
アクセス | 那覇空港から高速道路を利用して約25分 |
住所 | 沖縄県宜野湾市嘉数1 |
駐車場 | あり(無料)夜間は閉鎖。 |
トイレ | あり |
バリアフリー | 遠回りにはなりますが、公園の周りに歩道あり。 |
実は嘉数高台公園の石段を下りたところに、沖縄そばランキング1位にも選ばれた「3丁目の島そば屋」があります。せっかくなので、風味豊かな島そばを賞味して帰りましょう!
沖縄そばランキング1位の島そば屋さんの記事は下記からどうぞ!